まえがき(小林峻一)
第1部 戦争と革命の時代に生きたゾルゲ
プロローグ 国際スパイ事件の顛末(白井久也)
国際シンポジウム「二〇世紀とゾルゲ事件」
ゾルゲ事件シンポジウム 京都研究集会
第2部 歴史としてのゾルゲ事件
世界史としてのゾルゲ事件(石堂清倫)
ゾルゲ事件の歴史的意義(白井久也)
マルクス主義研究者としてのリヒアルト・ゾルゲ(ユーリー・ゲオルギエフ)
知られざるリヒアルト・ゾルゲの実像(ユーリー・ゲオルギエフ)
二十世紀規模の研究者および学者としてのリヒアルト・ゾルゲ(ユーリー・ゲオルギエフ)
一九九八年――ブハーリンの年(ユーリー・ゲオルギエフ)
ゾルゲとフィルビー(ロバート・ワイトマン)
ゾルゲと「スパイ・ゾルゲ」の溝(三雲節)
われわれは最後の最後まで、ソ日戦争回避のため力をふりしぼった(ワレリー・ワルタノフ)
リヒアルト・ゾルゲ 世紀の境界からの見解(ワレリー・ワルタノフ)
第3部 ロシアにおけるゾルゲ研究
ゾルゲ:彼に対する興味は尽きない(ユーリー・ゲオルギエフ)
ユーラシアの戦士リヒアルト・ゾルゲ(ワシーリー・モロジャコフ)
ところで、攻撃は電撃的に行われたのであった(ボリス・スイロミャトニコフ)
ヤン・ベルジン 見えざる戦線の司令官の運命(オビジイ・ゴルチャコフ)
スパイの妻カーチャの追憶(マリーナ・チェルニャク)
第4部 文献と解題
元駐日ドイツ大使オイゲン・オット一家の事件後の軌跡(アレックス・ドーレンバッハ)
ゾルゲの暗号電報
リヒアルト・ゾルゲの著作目録
ゾルゲ事件関係文献・資料目録
解題 ゾルゲ・尾崎事件の国際的背景(石堂清倫)
あとがき (樋口弘志)
十一月七日。
と聞いて、それがロシア革命記念日であったことを即座に思い当たる人は、だんだん少なくなってきているのではないだろうか。ロシア革命は一九一七年のことだった。
ましてや、その日がゾルゲ事件の主役リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実が日本で絞首刑に処せられた命日であったことを思い出す人は、もっともっと少ないことだろう。処刑は第二次世界大戦も終了間近い一九四四年のことだった。
そして半世紀余の時を経て、同じ十一月七日、国際シンポジゥム「二十世紀とゾルゲ事件」が東京で開催された。一九九八年のことである。
ゾルゲ事件に関して、“国際”と銘打ったシンポジゥムが開かれたのは、日本では初めてのことである。おそらく世界でも初めてではなかろうか。
このシンポジゥムでは、ロシア側二人、日本側二人、計四人のパネリストが報告を行なった。いずれの報告にも、ソ連崩壊後、ここ数年の間にロシアで開示が進んでいる公文書類から得られた新発掘情報が随所に盛り込まれた。当日は約三百人の参加者で、会場は満席となった。年配の男性が多いなかで、女性や若い人の姿も見られた。
シンポジゥムでは、「ゾルゲ病」という耳慣れない言葉が使われた。ゾルゲやゾルゲ事件というのは、ひとたび知ってしまうと、ますます知りたくなって深みにはまりこみ病みつきになってしまう麻薬のようなものだというのである。
世紀も変わり目にさしかかっている今もなお、半世紀以上も昔の人物や事件がなぜそんなに人々を魅きつけ
るのであろうか?
私見を一言でいえば、二十世紀の激動する歴史のダイナミズムを一身に集めて体現したようなゾルゲの苛酷な運命と、未だ解明されざる多くの謎にその理由があるのではないだろうか。
十九世紀末に生まれたゾルゲは、二十世紀に入ると第一次世界大戦に三度出征してコミュニストになる。スカウトされて革命の聖地モスクワに呼ばれ、コミンテルンで働いた。一九三十年代は赤軍のスパイとして日本で比類のない諜報活動を展開し、第二次世界大戦の勃発から逮捕(一九四一年十月)に至るころにかけて、ヒットラーのソ連進攻や日本の南進政策決定を事前にキャッチしてモスクワに打電するなど活躍はピークに達した。
戦後の冷戦下においては、ゾルゲは死してなおめまぐるしい毀誉褒貶にさらされる。ソ連が知らんぷりをきめこんでその存在を否定する一方で、GHQは反共宣伝のための格好のターゲットにした。途中から一転してゾルゲをソ連邦英雄に祭り上げたソ連がやがて崩壊するとともに、これまで秘密のヴェールに閉ざされていた歴史文書が次々と明るみに出てくる……。
このように、ゾルゲは二十世紀前半の歴史の核心地帯を生身で歩み、死後もなお世紀後半の現実政治に色濃く影を落とし、ようやくソ連崩壊後に赤裸々な実像を見せ始めた。ゾルゲまたはゾルゲ事件は、二十世紀の歴史のほぼ全体に濃淡さまざまな刻印を残しているといえよう。その謎の解明が、ある局面では現代史の深層を白日の下に照らしだす所以でもある。
――まえがきより