[目次]
氈@証言の時代としての二〇世紀
二〇世紀を生きる――終わりゆく世紀の証言 石堂清倫
愛国主義から排外主義へ――二〇世紀日本の幕開け……距離がありすぎた日本の社会主義者の「理論」と「実践」……われわれ自らのスターリン主義との戦い……思い出されるジノヴィエフの期待
*生きられた時代と思想の交錯
二〇世紀と「この時代」――ありうる現実、〈虚構〉の可能性 池田浩士
「加害者」の現場へ……ありえた、そしてありうる別の現実……ルカーチにおける全体性の問題……「教養小説」とはなにか……ありうる現実を虚構として構築しえたか……「参加と動員」の二〇世紀……ありうる現実がどうして現実とならなかったのか
*「敗北と抵抗の不可能生」から探る可能性
〈記憶〉の出会う場所――遺された〈投瓶通信〉 細見和之
カツェネルソン、『ショアー』との重なり……届いた〈投瓶通信〉……カツェネルソン、ツェラーン、尹東柱が出会う場所……自分のうちなる記憶との対話……言葉がもつ可能性と不可能性
*二〇世紀東方ユダヤ人の運命
〈敵〉はわが裡にあり――「日本ナショナリズム」を解体する 太田昌国
明確でない「正邪」「善悪」の区別……右翼ナショナリズムの跋扈と通底する戦後左翼・進歩派の理論装置や歴史観……「ペルー事件」で明らかになった日本人の「国際感覚」……日本に「壁」はないのか……制度化にまで行きついた「専門性」とその空洞化……マス・メディアと象徴天皇制の問題
*〈軍事〉神話を超える視点
断ち切られた対話――「ペルー日本大使公邸占拠事件」を問う 小倉英敬
MRTAとの対話を求めて……グローバル化とネイション形成の双方向……貧困問題のみでゲリラ運動や武装蜂起は生まれない……「彼らの死を残念に思う」……武力突入によって封殺された対話……グローバルなものとナショナルなものの拮抗……フジモリ政権の帰趨……グローバリズムとネオリベラリズムの影響
*「五〇〇年」の歴史が刻み込んだもの
記憶せよ、和合せよ――済州島四・三事件と私 金時鐘
五〇年以上も語らずにきた四・三事件……突然「これがお前の国だ」と……これが私の植民地だった……地獄を目の当たりにして……立ったまま地の底へめり込むような失落感……問題が熾烈化する四六年夏……郵便局事件……「赤どもが親父を殺したんだ」……四・三事件とは何だったのか……五〇年ぶりに済州島を訪れて
*感性と言葉への厳しい問い
掘り起こされる列島の記憶
北海道精神史――北から日本を 平澤是曠
岡田嘉子と杉本良吉の樺太越境事件……札幌時代の杉本良吉――ロシア娘との出会い……北緯五〇度の国境線……一九四五年・それぞれの敗戦……菅季治の「ナデーエッツァ」……教師として――「北海道綴方教育連盟事件」……北海道人の歴史をたどり続けて
*ロシア精神史への連なり
能代から世界へ――歴史を彫る・聞き書きに生きる 野添憲治
花岡事件の聞き書きに生きて……「民衆の側にいる」……出稼ぎを生きて……秋田の朝鮮人強制連行を掘り起こす……開拓農民の足跡をたどる……高度経済成長の裏で……森林空洞化の現実……秋田、能代から見える世界
*「生きられた歴史」の掘り起こし
大阪、猪飼野発――胸の中に「一粒の涙」を秘めながら 金蒼生
「生きるってなんやろう」……「精神的ジェノサイド」……「ラテン系かて、悲しみはあるしなあ」
*生活のなかに凝固された声
〈反復帰〉の思想を――「統合」強化に抗して 新川明
守礼門が刷り込まれた二千円札問題の本質……「反国家」の概念としての「反復帰」……「現実」に寄り添う「知」……思想・文化の深層から政治を問う「反復帰」論……精神文化を支えている根っこの部分を見る視点……変わらない日本国の国体観念
*反国家に裏付づられた思想
世界を映す「島」――八重山から日本と世界を見据えて 三木健
沖縄返還交渉と八重山近代史の双方を視野に……西表炭坑の歴史を掘り起こす……西表炭坑史から浮かび上がる内国植民地的な構図……沖縄内部の「内なる差別」を問う視点……現在も変わらぬ基地の自由使用という枠組……基地の問題と経済振興策とは別……「島はインターナショナル」
*「オキネシア」からのまなざし
。 身体からつむぎだされることば
水俣を抱き旅立つ――霧中をゆく巡礼者の姿 最首悟
「肉声」としての『水俣巡礼』……「はざま意識」を抱えて……「知らなかった!」と「あんた、分かるか!」とのはざまで……「水俣は人なりき」
*「はざま意識」からの出発
身体のざわめき――感受し、傷つき、共振する現在進行形の記録 栗原彬
差別が見えなくなっている 社会の厚い覆いがかけられている……仮構現実の覆いをはぎとる 自らのなかの覆いをはぎとる……ヴァルネラビリティ――受苦者と出会う……他者と共に居る――私の内側にざわめきが起こる
*「ジェノサイドの政治」への抗い
「震災五年」の視点から――地域から抉る近代の「根」 柳原一徳
「虫の目」で見つめる震災……「風化」への忸怩たる思い……事象の「根」に迫る……「震災五年」の現実……人間不在の官僚体質……「効率」「儲け」「技術」への信仰……神戸――近代日本の象徴を問う……「この町で記録し伝えていく」
*「一人ひとり」へのまなざし
未完の放浪者として――受けとめ語り伝える暮らしのなかの思想 野本三吉
子ども観の確立が次の時代をつくる……ライフヒストリー――凝縮された関係史……語り継ぎ、語り伝える
*異なる他者と出会う旅
認識に賭ける――「生きる場の哲学」を求めて 花崎皋平
「ここで一歩を踏み出さなければ、いつ?」……手作りでも、経験の総括や概念装置を組み立て作っていく……生きる場の現実の分析から理論を築き上げていく……理性を手放さずに……「根拠地」と「旅」をめぐって……「ピープルネス」と「世話(ケア)の倫理」
*いのちをわかちあう「風景」の創造
この二年間、「図書新聞」紙上で書物をめぐってインタビューを続けてきた。話を聞いた方々の数は、すでに六〇人近くにのぼる。このインタビューのなかから選んで編まれた本書は、書物と人間、そして歴史にまつわるそれぞれの「語りの記憶」であり、語りのなかで本と本とを繋ぎ紡いでいく「書物の精神史」、その一つの記録である。
書評紙という舞台で、インタビュー形式による本の紹介を始めた動機はいろいろある。もちろん、これはと思う一冊の本を、できるかぎりスペースを割いて紹介したいという思いも強かったが、直接著者の方々に会い、本をめぐって話を聞き続けるなかから私自身わかってきたのは、本の内容や著者のモティーフだけではなく、各人の「歴史と人間への省察」ともいうべきものが、語りのなかから浮かび上がってくるということだった。
本書に収録したなかでも、自らの個人史と時代とを交錯させながら二〇世紀を語った石堂清倫氏、また「済州島四・三事件と私」を語った金時鐘氏の語りは、歴史と人間、そして二〇世紀という時代への省察に貫かれている。それは、記録するとはどういうことか、書物を読むとはどういうことかを、語りに接した私自身を含めて、人々に問いかける内容でもあった。書物がかけがえない人間の記憶を内包するものであるとするならば、語りはその記憶に命を吹き込む。それは時代に刻印された人生、一篇の叙事詩ともいえる「語りの記憶」であった。
また、「ペルー日本大使公邸占拠事件」で「人質」となった小倉英敬氏は、MRTAメンバーの全員射殺によって断ち切られた対話のなかから、グローバル化と「五〇〇年史」の視点、そして「事件」を報道した日本のマスメディアの問題をも視野に、「ペルー日本大使公邸占拠事件」を掘り下げてゆく。そして太田昌国氏は、噴出する「日本ナショナリズム」への洞察とそれに対する対抗軸を、自らの日常と実践のなかで問いかけていく。二人のインタビューは、現代の問題を考えるなかで、書物を読む意味を問う内容となっている。
一貫して一九三〇年代を「この時代」の問題として問い続けてきた池田浩士氏は、二〇世紀を規定したともいえるナチズムとスターリニズムを内在的に、その内部に生きた人々の日常と感性に肉薄することで捉えてゆく。それらは歴史的遺物であるどころか、「この時代」に深く影を落としている。その最中で現代を考えること、そして書物を読み込むことで何を掴むのかを、池田氏の語りは読者とともに考え、問いかけている。そして細見和之氏は、記憶するし伝えることの意味、そのかけがえのなさを、「投瓶通信」を手がかりに書物との「出会い」のなかで物語っている。
インタビューを続けるなかで、私は書物を手がかりに、北海道から沖縄まで、列島各地を著者に会いに訪ねてゆくことになった。それは、それぞれの土地で生き、思索してきた人々の語りに接する旅であり、東京にじっと安住していては見えない、書物と人とを結ぶ精神史を探り当てる旅でもあった。
札幌在住の平澤是昿氏の語りは、一貫して北海道の近現代史と取り組み、北海道人の生きざまを記録してきた氏の、「北海道精神史」の試みであった。六冊にのぼる北海道近現代史を生きた人間の記録を書きついできた平澤氏は、自らの人生と交錯させながら、北海道精神史の脈流を物語った。それは、「語りの記憶・書物の精神史」という本書のタイトルを体現する内容であった。
秋田・能代にあって花岡事件や出稼ぎの近現代史、森林や農をめぐって生きた人間をとおして歴史の聞き書きを続けてきた野添憲治氏は、埋もれた歴史、「正史」に隠された民衆の生きざまを記録してきた半生をたどりながら、能代から見える世界について物語った。そして、大阪・猪飼野に生まれた金蒼生氏の語りは、自らのなかで温められ、紡ぎ出された思想、その言葉に包まれていた。そこには、現代日本の知の驕慢を照らし出す、真の知識人の姿があった。また、沖縄のジャーナリスト、新川明氏と三木健氏のインタビューには、ジャーナリズムが歴史への視座と思想に裏打ちされてあるという、日本の大新聞がもはや喪失してしまった時代批判の感性が横溢していた。
本書には、身体から紡ぎ出された言葉に包まれた、最首悟、栗原彬、野本三吉各氏の語りが収録されている。水俣を抱いて旅立つ学生、その巡礼者の姿を語る最首氏、そして水俣病と向き合い、身体のざわめきを聴きとる学問を模索する栗原氏の語りは、水俣の人々と自らのセンシビリティに貫かれ、書物を読み学ぶことの意味を問いかける内容となっている。そして野本氏は、子どもとの関わりのなかで、歴史を受けとめ、語り伝える「暮らしのなかの思想」の大切さを伝えている。彼らの言葉は、自らの生き方、読むこと学ぶことをとおして、開き開かれてゆく精神の在処を問い求めている。
こうして、それぞれの「語りの記憶」のなかから、書物が人間の思想や歴史、生活をとおして伝えられる。そして、一人一人の話に語られた書物を読者に手渡すこと、なによりそれが書評紙に生命を吹き込むものであることを、本書に収められた語りは示している。そして、それらをつなぎ合わせ読者に伝えることが「書物の精神史」を紡ぎ出してゆく「図書新聞」の実践であることを、聞き手として、私はそれぞれの語りのなかで学んでいった。――まえがきより