序論 植民地教育史認識の問題構成(藤澤健一)
一 「実証」と歴史認識のはざまで
二 これまでの日本植民地教育史研究とその現在的課題
三 歴史認識の深化とわたしたちの生
四 本書の構成・内容
第一部 植民地教育史認識の方法――「近代性」「客観性」「再生」
第1章 植民地教育における「近代性」について(王智新)
一 はじめに
二 近代性とは何か?
三 近代化について
四 近代教育について
五 植民地教育という事象を検証する方法的原則
六 おわりにかえて
第2章 植民地教育史認識における「客観性」(藤澤健一)
一 課題設定と若干の前提
二 問いとしての「客観性」
三 日本植民地教育史研究における「客観性」
四 植民地教育史認識における「客観性」の確立
第3章 歴史を生き直すこと(孫歌/王智新訳)
一 身体の記憶
二 歴史としての現在/現在としての過去
訳者注記
第二部 植民地教育史認識における民族・文化の位相
第4章 植民地支配下の朝鮮における言語の「近代化」(石純姫)
はじめに
一 言語における「近代化」
二 朝鮮における言語ナショナリズム
三 言語ナショナリズムの両義性
四 今日的課題として
第5章 韓民族の海外民族学校におけるチャンガ(唱歌)運動(高仁淑)
はじめに
一 亡命志士による救国運動
二 民衆の自主独立運動
三 学校でのチャンガ運動
まとめ
第6章 「満洲事変」の中国東北教育への影響(大森直樹)
一 課題設定
二 日本側見解
三 中国側見解
四 『各県教育概況表』の分析
五 結びにかえて
第7章 書は植民地支配にいかなる役割を果たしたか(橋本栄一/松宮貴之)
一 はじめに
二 書の戦争責任はなぜ追及されなかったのか
三 日満支親善書道展覧会について
四 結び
第8章 個人史にみる「満州国」教育の一側面――「満州雑語」を中心に(蘇林)
はじめに
一 真貝氏在「満」の一一年
二 『満州雑語』
おわりに
第三部 記憶の継承と共有化
第9章 沖縄教育と台湾教育(又吉盛清)
一 沖縄と台湾植民地支配
二 明治政府の台湾出兵と沖縄
三 沖縄教育と台湾植民地支配
四 沖縄教育から台湾教育へ
五 最後に
第10章 韓国における「植民地教育史認識」の現在と展望(李明實)
一 はじめに
二 解放以後における「植民地教育史認識」の展開過程
三 「植民地教育史研究」の方法
四 おわりに
第11章 植民地博物館史研究を問う――「満州国」に関する研究動向を中心に(君塚仁彦)
一 問題意識と課題設定
二 「満洲国」博物館史研究を問う
三 植民地博物館史研究の深化に向けて
第12章 戦争と感情(野田正彰)
はじめに
一 戦争神経症とPTSD
二 感情を麻痺させる人々
三 自分の感情を聴き取る力
四 情報化と感情
五 叙情が苦手な人たち
六 豊かな感情交流を回復させるために
東アジア研究交流と問題意識の共有化――あとがきにかえて(大森直樹)
知れば知るだけ貧しくなる。いささか乱暴な表現ではあるが、敢えて集約せよと言われれば、日本植民地教育史研究の現状について、筆者はこのように捉えている。
現在の日本植民地教育史研究は、かつて無いほどに量的な拡大を遂げ、学問的な認知度が高まってきていることは衆目の一致するところである。このことは、対象とされる地域や事象の拡大によって着実に裏付けられている。史資料の整理作業や聞き書きによる個人史の蓄積、そして、旧植民地側との行き来や「研究交流」も、格段の進捗をみせつつあると判断できる。このテーマを掲げた学術書や学術論文の刊行は、間違いなく蓄積されている。
だが、性急との謗りを恐れずに言えば、そうしたうわべの隆盛とは裏腹に、少なからずの研究が歴史認識を曖昧にし、貧困化させる役割を担っている、あるいは、知的生産者の主観的意図に反して、そうした役割を担ってしまっているのではないか。日本植民地教育史研究の現状は、歴史認識の確立に必ずしも成功してはいないと思われる。それどころか、敢えて挑発的に言うならば、現在の日本植民地教育史研究は、歴史認識の確立を忘却し、あるいは歪めてさえもいる。本書は、看過し得ないこうした研究状況についての危機意識を同じくする人々の手によって上梓されるものであり、このような状況を打開していくための批判的介入の試みである。
歴史認識は、精確な史実の把握にのみ基づくものであることはここで贅言するまでもない。だが、敢えてこのことを確認したうえで、誤解を恐れずに言えば、既存のアカデミズムの在り方について、わたしたちはきわめて批判的であり、端的に言うならば、懐疑的でさえある。なぜならばそうしたスタイルは、一見して「客観的」であるかのように装いながらも、植民地支配という「客観的」事実を曖昧にするという、あまりに皮肉な機能を果たす場合があるからである。
日本植民地教育史研究は、一九八〇年代から大幅なと言って良いほどの数量的拡大を遂げ、現在へと至っている。それは量的な拡大と同時に、質的な変化をも併せ持つものであった。
第一に、台湾、朝鮮への視野の限定というそれまでの状況から脱却して、「南洋群島」、各占領地域、「満洲国」等々へと研究視野を拡大してきた。
第二に、史資料の収集整理が進捗して、研究の基盤整備が格段に整えられるとともに、植民地の文化や言語の状況に見られる「主体」形成の実像、それらを裏づけるオーラル・ヒストリーによる個人史の蓄積にみられるような研究対象事象の多元化が指摘できる。初期の研究と比すれば、研究の多元化はきわめて著しい。これまで手が届かなかったような領域、つまり、帝国主義による植民地への搾取構造といったいわば大状況論的な規定だけでは捉え切れなかったような微細な領域にも手が届くようになったことは、それまでとは格段の質的な違いであると考えられる。
しかし、紙の上で〈歴史としての植民地主義〉を「批判」したつもりでも、自分自身の感性や知性、そして日々の生活が、〈実態としての植民地主義〉によって形作られ、更に言えば、結果としてその特権を間違いなく貪っている。現在への鋭い課題意識の欠如、創造力の貧困は、過去への洞察をも同時に掣肘する。とするならば、こうした感性と知性の貧困は、翻って言えば、研究対象たる〈歴史としての植民地主義〉への視線の全き未熟さの証左に他ならない。現在を真摯に捉え切れない者に、どうして過去のことが本当に語れるのか。どれだけ主観的には善意であっても、他者の抑圧・収奪の上に成立している知性は、根底的に堕落している。この堕落から救い出すためには、どのような方法視角が求められるのであろうか。
本書の準備作業が進んだこの間においても、歴史認識の在り方について落胆を禁じ得ない発言が日本社会の公的な場において散見された。一貫して再生産され続けているこうした類いの発言に筆者は、正直に言って、怒りを通り越し、またしてもかと諦念に似た感情すら抱いてしまいがちであったことを告白せねばならない。
こうした発言を批判し、克服するために必要なのは、一体何なのか――、植民地教育史認識を現在において論じることは、狭義の学術的な境界を越えて、この問いにどのように介入できるのか――。こうしたことが、本書に立ちはだかる切実なる実践課題として突き付けられていることを筆者は日々かみしめていた。
いくつもの意味で本書の執筆者は決して一枚岩ではない。立場性を異にする幾多の声によって構成された本書が、総体としてどのような植民地教育史認識の音色を奏でるか、読者諸氏による批判的応答を仰ぎたい。(藤澤健一)
――序論より