はじめに
1 超越と高等宗教
2 人間とは何か
3 キリスト教とは何か
4 仏教とは何か
5 究極の宗教
私は本書において、キリスト教とは何か、イスラームとは何かを考察するとともに、東アジアに今なお根強く存在し、さらに近年では一部ではあるが欧米にまで浸透していっている仏教を考究することも必要不可欠なことと考えました。私は、とくに日本人として仏教国の一員として、そのことを強く意識します。
しかも、仏教の教えは、ある範囲内ではセム的一神教より深いものがあると考えます。セム的一神教は、一神教の常として極めて排他的です。仏教はこれに対して包擁的です。仏教は開祖釈尊の教えは生老病死を超克し、涅槃の境地に達することをめざしていますから、絶対神とか超越とかいった概念は必要ありませんでした。しかし、釈尊のような超人は別として、普通の人間には、自己の死とか有限性を眼前にして、絶対・超越に依存しないで、悟りを開くということは至難の業でした。
このような事情から、大乗仏教が登場いたしました。大乗仏教では久遠の本仏として大日如来とか阿弥陀仏あるいは日連宗のいう久遠実成の仏といった「常住不変」の絶対・超越者がでてきます。それと同時に衆生も煩悩を払えば仏性に輝く、成仏するというのです。この概念はキリスト教のパウロやバルトの神学でいうインマヌエル(神私たちとともに在ります)という観念と極似しています。
ただ、キリスト教と仏教の最大の違いは、前者の神ヤハウェが創造神であるのに対し、大乗仏教の久遠の本仏も、何ら創造者の概念をもっていないことにあります。
セム的一神教とりわけキリスト教とは何か、それに対して仏教とは何かを考察することが必要だと考えます。それらについて、本書では現代物理学の知見と神秘ともいえる言語学の洞察から照射しました。その結果、宇宙自体が絶対・超越であり、能産的(つくる)自然であるからして、創造神の概念は不必要だろうということをのべました。また、宇宙は六〇〇億年を一サイクルとして、膨張と収縮を繰返す超越的存在だろうと述べました。したがって、大乗仏教のいう久遠の本仏を常住不変の本仏とするよりも、不変ではないが不滅だ(六〇〇億年を一サイクルとする振動宇宙は、変化しつづけているが、その存在自体は不滅です)という観点から常住不滅とするほうがよいと思います。
四〜五世紀に出された「法華経論」では、本仏は法身(ほっしん)(眞理身)として無始無終(むしむしゅう)の普遍的存在、応身として有始有終の具体的存在、両者の長短をおぎなう普遍的にして具体的存在・報身(ほうしん)(因行果徳身)の三身説が身かれています。すなわち、法身とは時間の始めも終わりもない常住不滅の絶対・超越としてのマクロ・コスモスなのです。
さらに本書では、人間はミクロ・コスモスとして宇宙=能産的自然がつくた所産的自然だと述べました。しかも、言語を獲得して意識をもった至った芸術的生命体として超越的次元をもっているだろうとも書きました。――あとがきより