イエスは食べられて復活した●目次  

プロローグ 「人喰い」と「イエスの復活」
 「人喰い」という者が「人喰い」/イエスは食べられて復活した!?

第1章 ユダヤ教とキリスト教とは何か
 イエスは神か神の子か?/『旧約聖書』と『新約聖書』/超越神か自然神か/イエスラルの由来/契約する神・審判する神/メシア信仰/メシアをとるかトーラーをとるか

第2章 イエスの降誕
 イエスの家系図/処女懐胎/イエスはベツレヘムで生まれたか? 

第3章 イエスの出家
 セッフォリスのイエス/出家の動機をめぐって/バプテスマのヨハネ/聖霊が鳩のように降ってきた/荒れ野の誘惑

第4章 ガリラヤでの伝道
 ガリラヤでの伝道の開始/貧しい人々は幸いである/トーラーの完成/腹を立ててはならない/姦淫する目は抉りだして捨てよ/離縁と誓いの禁止/敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ/明日のこととを思い悩むな/狭き門より入れ

第5章 悪霊退散のパフォーマンス
 悪霊役者の誕生/悪霊は豚の群れに飛び込んだ/人間をとる漁師に成れ/イエスの説得/悪霊役者の養成/罪人を招くために来た

第6章 メシアをとるかトーラーをとるか
 メシアによる救い/人の子は安息日の主である/平和でなく剣を/足の埃を払い落とせ/家族はイエスが気が触れたと心配/イエスブームの退潮

第7章 命のパンと教団大分裂
 わたしが命のパンである/人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ/永遠の命の言葉/弟子たちの大離反

第8章 エルサレムへ
 預言者はエルサレムで殺される/メシアは驢馬に乗って/神殿から商人を追い出す/天からか人からか/「ぶどう園と農夫」の話/カエサルのものはカエサルへ/死んだ者の神ではなく、生きている者の神/神への愛と隣人への愛/メシアはダビデの子か?/神殿の崩壊を予告する/終末の徴と苦難の予告と人の子の到来

第9章 最後の晩餐
 貧しいやもめの献金/イエスを殺す計画/ベタニアの香油とユダの裏切り/過越の食事をする/パンと赤ワインの聖餐

第10章 ゴルゴダへの道
 今夜、鶏が鳴く前に三度/イエスはひどく恐れて悶えた/皆イエスを見捨てて逃げてしまった/最高法院でイエスはメシアを自認/ピラトとヘロデに尋問される/イエスの死に対する責任/メシア・イエスの処刑祭典/エリ、エリ、レマ、サバクタニ

第11章 イエスの聖餐
 イエスの埋葬/屠られた仔羊/神聖な儀式として聖餐

第12章 イエスの復活
 暴かれた墓/マグダラのマリアの全能幻想/エマオに現れたイエス/弟子たちに現れる/復活体験と世界宣教/パウロの復活体験

エピローグ 「命のパン」における循環と共生の思想
 梅原戯曲における「復活」/死して生きる/「命のパン」の思想




 西洋人は、自分の目で見て確かめたわけでもないのに、非西洋人に人喰いの伝承や噂があれば、簡単に信用してしまいます。ところが西洋人に関しては、そんなことをするのは悪魔か鬼にされてしまいます。キリスト教徒が初期に子供を生贄にし、みんなで食べていたという人喰いの秘儀の情報がありますが、西洋人は、これを弾圧のためのデマゴギーであったと簡単に決めつけ、絶対にそんなことはなかったと確信しています。

 わたしもこの種の噂は「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、永遠の命は得られない」という「ヨハネによる福音書」の「人の子」の意味の取り違えから生じた誤解であったと思います。「人の子」というのは「メシア」つまり救世主=キリストのことであり、一般人の子供では決してありません。ユダヤ教・キリスト教の文化では、人喰いは絶対のタブーでしたし、パンとワインによる聖餐が当初よりありましたから、そのような教会の秘儀はありえません。

 キリスト教では教会の中心儀式は、聖体拝受です。つまりイエスの肉を食べ、血を飲む儀式です。それは実際はパンを食べ、赤ワインを飲んでいるのですが、正式の教義では、パンはキリストの体である教会の中では、神父の呪いで本物のイエスの肉になり、赤ワインは本物のイエスの血になるということなのです。これを象徴的に解するのは間違っていて、奇跡と受け止めるべきだというのです。 ということは教会の正式の教義では、キリスト教徒はカニバリズムを行っていることになります。

 パンや赤ワインでの聖餐は、人身御供や動物の生贄に伴う聖餐の名残りだと考えられます。その起源を辿れば当然カニバリズムに行き着かざるを得ないのです。イエスの聖餐の起源は、それについて考えれば考えるだけ、イエスの弟子たちがイエスの肉を食べ、血を飲んだという歴史的原行為、秘儀の存在への想像を抑えられなくなるはずです。パンをイエスの肉だと思って食べるのが少しも忌まわしい行ためでないのなら、直接イエスの肉を食べる行為が忌まわしいはずがありません。だってイエス自身が、人の子の肉こそまことの食材だと語っているのですから。

 「イエスは食べられて復活した」という仮説に到達したとき、我ながらこれは仰天仮説だと思いました。だってユダヤ教やキリスト教では人の肉を食べたり、血を飲んだりすることは、カニバリズムと呼ばれ、最も忌まわしいタブーとして厳禁されているからです。その教祖のイエスが自分の肉を食べさせ、血を飲ませて、そのことによって弟子たちに自分の中に宿っていた聖霊を引き継がせようとしたというのです。まずそんなことは絶対にするはずがないという固定観念があります。

 例えば人の死肉を食べると「人喰い」と人非人のごとく呼ばれ、血を飲むと「吸血鬼」と呼ばれますから、全く人間の限界を越えた行為として排斥されているわけです。それを自分の弟子に強要したというのですから、ちょっとふざけた暴論じゃないかという人もいます。でも本書をじっくり読んでいただけば、決してキリスト教を冒涜するような議論ではなく、イエスの「命のパン」の思想を現代に生かすべきことを提唱する、埋もれたイエスの「復活」を目指したものだと分かっていただけると思います。

 かつては、カニバリズムを社会の秩序の中にきちんと組み込んでいた時代があったのです。つまりカニバリズムはれっきとした文化だったのです。ジャック・アタリが『カニバリズムの秩序』(みすず書房)という本で詳しく紹介しています。食べることによって死者を再生させるという信仰があったのです。子供が親に食べられますと、親の体に帰ったことになりますから、また生まれてきます。

 現在でもカトリック教会が固執している元来の教義では、単なる象徴的な儀式ではなく、本当にイエスの肉を食べ、血を飲む儀式なんです。神父が祝福することでパンはパンの姿や味のままイエスの肉になり、赤ワインは赤ワインの姿や味のままでイエスの血となるとされているのです。どうしてパンをイエスの肉、ワインをイエスの血としなければならないのでしょう。もちろんイエスと合一したいという愛の極致を表現しているのです。愛の肉体的表現としては合一したいという感情がわき起こります。これは抱擁、スキンシップ、接吻、性交と深まって、究極が愛する相手を食べてしまいたいというカニバリズムに行き着くのです。宗教と性愛は、肉体的表現では融合するところがあるのです。キリスト教では賢明にも、イエスの体をパンやワインに置き換えて、性愛との融合を回避しているわけです。

 露骨なフェティシズムを二千年間続けてきた理由を精神分析しますと、イエスの本物の肉を食べ、血を飲んだという元の行為、つまり原行為があったとまず仮定できます。それはカニバリズムタブーに抵触する問題行為だったのです。それでもカニバリズムタブーに抵触していても、神聖な正当な行為であったことを無意識に主張するために、その同じ行為を無意識に繰り返しているのです。この「反復」も自我防衛機制の一種だと考えられます。イエスの肉や血は現に有りません。そこで例えフェティシズムに当たっていても、パンや赤ワインに置き換えてでも、イエスの聖餐を繰り返しているわけです。潜在意識の働きですので、たとえ根本教義に抵触しようとも簡単には止められないのです。

 ではどうしてイエスに対するカニバリズム行為が行われたのでしょうか。もちろんこれはイエス自身が弟子たちにそうするように命令したからです。なぜならイエスの体内に宿っていたと思われていた聖霊を、イエスの死にあたって弟子たちの中に移転させる必要があったからです。

 そこはイエスの予想も越えていたのですが、イエスを食べた弟子たちは神の子を食べたという全能幻想から、イエスと何かが少しでも共通しているとイエスに見えるという倒錯を起こしたと推理できます。全くの別人をイエスに見間違えたのです。それにイエスを食べた弟子たちは、自分たちの体内で聖霊が蘇ったという意識になります。するとイエスの人格に圧倒されることになって、一時的にイエスが憑依し、人格を乗っ取るわけです。自分がイエスに成りきって行動してしまうわけですね。これは後で我に返っても思い出せません。いわゆる二重人格症状が引き起こされたのです。

 それを見ている他のイエスを食べた弟子はやはり全能幻想から、正真正銘のイエスの復活と思い込みます。こういうメカニズムでイエスが肉体的にも復活したという体験が生じたのです。この体験が核になって、殉教もおそれない初期キリスト教団が形成されたというわけなのです。

 これはあくまで精神分析的方法での解釈に過ぎません。イエスを食べたという物的な証拠は何もありません。しかしこの方法で一応のキリスト教の成立と聖餐の謎が説明できるわけです。もしこの解釈が誤りなら、それこそ神がイエスを本当に復活させたのかもしれません。――プロローグより

→目録に戻る