唖蝉坊演歌に誘われて(1)【須田町・池之端】散策

池之端七軒町2

唖蝉坊の演歌に誘われて東京を歩いてみると、見過ごしてきた景色にたくさんの掘り出し物が見つかりそうです。

今回はその一つ、「ヘナチョコ節」に出てくる神田・須田町から上野・池之端をトコトコ歩いてみました。

「ヘナチョコ節」


須田町の角からどこまでも
づらりと並んでサボつてるは
東京で自慢のボロ電車

三十分も五十分も動かない
それを気長に待つてゐる
死民(おきゃく)の心はどんなもの

 ステキメツポーヘナチヨコだ
 ステキメツポーヘナチヨコだ

明治の後半、路面電車が東京市民の足として走り出します。やがて経営が私企業からから東京市に移ります(1911年(明治44年)8月)。東京市の路面電車(「市電」のち1943年(昭和18年)以降「都電」)は最盛期には40路線があったといいます。昭和40年代にその多くが廃止されてしまうのですが、現在も早稲田と三ノ輪橋を結ぶ都電荒川線があります。

「ヘナチョコ節」では、東京市民を「死民」と書いて「おきゃく」と呼ぶところに唖蝉坊演歌の醍醐味を感じます。いろいろな電車が行き交う光景は見ているだけでわくわくしますが、歌詞からは現在とは違う空気を感じます。

満員電車は観光名物でもあったのか(!?)、ぎゅうぎゅうに乗り込む様子を写した写真はがきが残されています(『演歌の明治ン大正テキヤ』にも載せています)。

さて、「ヘナチョコ節」に出てくる須田町のあたりは、古い教材『東京地理教育 電車唱歌』にも出てくるほど路面電車の路線が多く交差する重要ポイント。


乗りかへしげき須田町や

昌平橋をわたりゆく

 

さて、トコトコ・・・

 

須田町1

現在の須田町を歩こうと、須田町歩道橋まで来ました。(2016年9月2日、室員撮影)

須田町3

歩道橋から須田町交差点を眺めます。かつてこのあたりを路面電車が走っていたのでしょう。向こうにJRの電車が走る小柳橋架道橋が見えます。

須田町4

須田町交差点まで来ると、車道が大きくカーブしています。頭の中で路面電車をむりやり走らせる室員の脳内には、路面電車がキキキ……!とカーブを走る音が響きます。人が行き交うなかをデジカメで交差点を写していますと、すっかり観光気分です(?!)。

次に、須田町の歴史を伝える案内板の文面を紹介します。


神田須田町一丁目

江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596~1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には「すた町」と記されています。
江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原(やないはら)土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もひます。
つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
(案内板より)

須田町6須田町5

案内板は江戸期と現在の地図を対比させています。


須田町7

上は、須田町交差点を先ほどと反対側から見ています。カーブの方です。手前の帽子をかむる美人はオブジェです。田中昭の作「華ごろも」です。(室員のデジカメは不調のため画面が乱れていますことご容赦下さい。)

周辺はビルが乱立していますが、路地をこまかく歩きますとまだまだ古い建物が見つかります。神社のお社があったり、戦前の「神田区」の表札も見かけました。

さて、「ヘナチョコ節」の原歌は吉本さん雨・作の「ヘナチヨコ集」だそうです。


上野のお山と池の端
ズラリとならんだ建物は
東京で自慢の平和博

ヱビスさんと大黒さんが笑つてる
それを整理のお巡りさん
お腰のサーベル何(ど)んなもの

 ステキメツポーヘナチヨコだ
 ステキメツポーヘナチヨコだ

 

こちらには上野が出てきます。今も東京の観光名所として親しまれる上野恩賜公園のあたりでしょうか。戦前は旧下谷区であったこの辺りもまた添田唖蝉坊ゆかりの土地です。

「ヘナチョコ節」の歌詞を収めた添田唖蝉坊編『最新流行唄』(大正11年、1922年)の奥付を見ると、添田唖蝉坊の住所は「東京市下谷区御徒町」とあります。

さてさて、トコトコ・・・

恩賜上野動物園の池之端口からほど近いところに、東京の路面電車にゆかりのあるスポットがあります。

池之端七軒町3


ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。

昭和30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋~須田町)、37系統(三田~千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前~銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和42年(1967年)12月に37、40系統が廃止、昭和46年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。

平成20年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。

(使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。)

池之端七軒町1

都電7500形(7506号車)

ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和37年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和59年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成20年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成20年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。
(案内板より)


池之端児童遊園のある場所はちょっと見過ごしてしまうかもしれません。上野恩賜公園の賑やかさからは遠ざかり、室員が訪れた時にはスマホをみたり一服する人が隅で休んでいました。


参考文献:林順信『都電が走った街 今昔』(JTBキャンブックス、1996年)。石堂秀夫『懐かしの都電 41路線を歩く』(実業之日本社、2004年)。


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投稿者: 社会評論社 特設サイト 目録準備室

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