青木孝平/著『「他者」の倫理学』書評つづけて掲載!!

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先月9月刊行の青木孝平著『「他者」の倫理学』の書評がこの間、『週刊ダイヤモンド』2016年9月24日号、『創』2016年11月号、『毎日新聞』10月16日付に続けて掲載されています。

いずれも佐藤優氏(作家、元外務相主任分析官)の寄稿です。「最近、筆者が長い間、考えていたこととほぼ同じ問題を扱った衝撃的な書物に出会った」(『創』2016年11月号、佐藤優連載「ナショナリズムという病理」第102回より)とお書きいただきました。ありがとうございます。

今回は本書の冒頭「まえがき」(全文)を公開し、本書の魅力をご紹介いたします! 


「まえがき」全文 

 

本書はタイトルこそ「他者の倫理学」であるが、そのサブタイトルには、レヴィナス、親鸞、宇野弘蔵といういっけん何の脈絡もないような名前がならんでいる。

このため、本書を手に取ったとき読者は、大きな困惑もしくは訝しさに似た感覚に襲われるかもしれない。これはいったい何について論じた書物なのであろうか、また、誰に向けて書かれているのであろうか、という理解不能の感覚である。

あるいは、それよりも前に、まず、書店員や図書館司書といった書籍を扱う担当者にお詫びを申しあげるべきかもしれない。この本は、いったいどのジャンルに入るのか、どういうテーマの棚に分類すべきか、おそらくかなり手間どり迷惑を掛けてしまうのではないかと推測される。

もしかしたら彼/彼女らは、サブタイトルにレヴィナスの名があることから本書を現象学に、より広くは哲学のジャンルに配置するかもしれない。または親鸞の名があるため仏教学に、より広くは宗教学に分類するかもしれない。さらにまたは宇野弘蔵の名によって経済学に、より広くは社会科学の分野に収められることになるかもしれない。

しかしながら本書は、これらのどのコーナーに置かれたとしても、やはり周囲の書物から浮き上がりどこか場違いの感覚を免れ得ないであろう。

なんといっても本書は、これらいずれかの領域の専門的研究書に属するものではない。こんにちレヴィナスも親鸞も宇野弘蔵も、それぞれに新しい資料が発見され渉猟されており、文献学的にも人物史的にも精緻で微細にわたる研究成果が次々と発表されている。

本書は残念ながら、そうした現象学や仏教学や経済学のプロパーの研究者に太刀打ちできるような学術書ではありえない。それはひとえに私の勉強不足に原因がある。

しかしながらいささか弁解めくが、そのせいでむしろ、第Ⅰ部のレヴィナスも、第Ⅱ部の親鸞も、第Ⅲ部の宇野弘蔵も、各部を独立して取り出せば、それぞれ初心者にも理解し読了してもらえるような入門書的・解説書的な記述に終始しているはずである。

その意味では読者には、それぞれの好みに応じてどの部分から読み始めてもらってもかまわない。けれども、できれば全Ⅲ部の全体にひととおり眼を通していただければありがたいと思う。

なぜなら、いっけん無関係にみえるレヴィナス、親鸞、宇野という三者三様の思想を、古い言い方をすればインターディシプリナリーに、少し前に流行した表現を借りればトランスクリティークに重ね合わせたとき、そこに、読者の予想を超える、そして著者である私自身の意図をも凌ぐ、思いもよらない未知の「思考」が厳然と立ち現れてくることを期待するからである。

すなわちそれは、現象学の超越論的主観性ないし純粋意識から大きくはみ出し、大乗仏教による自力作善の行から遥か彼方にあり、マルクス経済学における人間の労働という主体の完全な外部にある、それゆえ誰の想像力をも凌駕する「思考」である。

このような「思考」を、認識主体としての自己を超えるという意味において、本書では「他者の倫理学」と名づけたいと思う。

いうまでもなく、これまでのほとんどすべての思想は、つねに「自己」を起点とし、あるいはそうした自己を普遍化した「人間」なるものを出発点としてきた。現象学的哲学や仏教は、そうした人間の意識によって世界を構成し、マルクス的社会科学は、同じ人間の労働によって世界を生産できるものとみなしてきた。

もちろん論壇では、このような主体としての「自己」ないし「人間」を超克する思想として構造主義や関係主義の思想がはなばなしく登場したこともあった。だが、それらは、関係的構造の項に「自己」としての「人間」を縛りつけることはできても、けっきょくついに、自己(人間)を真実に対象化することには必ずしも成功しなかったように思われる。

本書は、レヴィナス、親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで、形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し、自我を根源的に相対化しうる「他者」を主体とする思想、すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている。

誤解を恐れずに言えば、現象学の外部にあるレヴィナス、仏教を異化する親鸞をつうじて、マルクス経済学を否定する宇野弘蔵を再発見する試みであるということになろうか。彼らの思想のなかに、徹底した「他者」中心の倫理学を見いだそうという企てであるといってもよいだろう。

本書は、いまだけっして体系的といいうるような完成された作品ではない。もしかしたら著者の舌足らずの言語のせいで、自分では表現したつもりになっている思考の半分も読者に伝わらないのではないかと危惧している。

けれども、賢明なる読者諸氏には、この未熟な書物の言外にあるものを想像力で補って読んでいただき、本書に期せずして埋め込まれた「倫理への渇望」を汲み取っていただければ、なによりの幸せである。                                         著 者

他者の倫理学青木孝平/著
「他者」の倫理学
レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む

四六判上製/360頁/定価:本体2,600円+税

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目次は下記記事をご覧になって下さい。

倫理なき時代における倫理への渇望の書、ついに登場!─青木孝平『「他者」の倫理学 ─レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む─』

投稿者: 社会評論社 サイト

社会評論社 SHAKAIHYORONSHA CO.,LTD.