| 特集 | 『機械翻訳と未来社会 言語の壁はなくなるのか』リレーコラム(3)瀬上和典

リレーコラム(3)

瀬上和典
(東京工業大学非常勤講師)


はじめまして。2019年7月に出版された『機械翻訳と未来社会―言語の壁はなくなるのか』の共著者の1人で,瀬上和典と申します。今回は,わたしが担当した第2章「機械翻訳の限界と人間による翻訳の可能性」についての紹介と今後の展望を記させていただきます。

第2章「機械翻訳と人間による翻訳の可能性」について

昨今,「高度な機械翻訳の登場により人間による翻訳は淘汰されるのか否か」という議論がネット上などで散見されますが,この議論を具体的に,また批判的に進めるための足場を組み立てることが本章の目的です。この目的のためには機械翻訳に関する学術的な技術や理論を整理することが有用であると思い,自然言語処理(Natural Language Processing: NLP)とトランスレーション・スタディーズという理系/文系の学問を突き合わせる構成にしました。

人工知能が急速に発達し,それに伴い機械翻訳の精度がますます高まっているという話を耳にすると,英語教育業界に携わっている自分のような文系人間は,「遠くない将来に外国語学習の必要性がなくなり,外国語講師は仕事を失ってしまうのではないか」などと漠然とした不安を覚えやすいものです。このような不安が妥当なものかを検証するために,主に機械学習(Machine Learning: ML)に立脚した未来の仕事の機械化についての研究と機械翻訳の開発を担う自然言語処理の研究に注目しました。

ここで面白かったのは,さきほどのような不安とは裏腹に,自然言語処理の開発者のあいだでは「高度な自動機械翻訳の完成を目標としてはいけない」という認識が前提として存在していることでした。すこし立ち止まって考えればわかりますが,そもそも言語自体が曖昧なものであり,ある叙述が何を述べているのかを正確に理解するためには,コンテクストなどに関する膨大な知識が必要とされます。本章でも参照したThierry Poibeauは,Machine Translationという本のなかで言語解釈の難しさを示すために「The chicken is ready to eat.」という英文を挙げています。これは「その鶏はエサを食べる準備ができている」と「その鶏肉はもう食べることができる」と二通りに解することができます。to不定詞のeatが自動詞であると解釈すれば,to不定詞の意味上の主語は主節の主語(The chicken)に一致する(前者の訳)のですが,eatを他動詞であると解釈すれば循環構文(tough構文)と呼ばれる構造をとり,主節の主語(The chicken)がeatの目的語となります(後者の訳)。構造(形式)から文の解釈の可能性を絞るところまで可能ですが,この文の意味を最終的に決定するにはコンテクストが必要なのです。わたしたちにとって,コンテクストという概念は当たり前のもので,適切な翻訳を行う際にはかならず参照するものですが,ディープラーニングなどの機械学習においてはそうした概念の獲得が大きな壁となっているようです。

つぎに人間による翻訳の優位な点を前景化するために,自然言語処理における問題点を参照しつつ,トランスレーション・スタディーズで理論化されている翻訳の方略を概観しました。ここで取り上げた具体的な翻訳の例は,ゲームなどのローカリゼーションの一部にみられる「創造翻訳(transcreation)」とポストコロニアルな視点を有する「厚い翻訳(thick translation)」です。

前者は,システム上の制限やコンテクスト(ゲーム好きのユーザーが共有する常識など)といった言語外の条件を考慮しながら翻訳を行います。後者は,翻訳される際に捨象される起点言語が有する価値観などにスポットをあて,それを記述し翻訳語に捨象される「他者(性)」(より一般的に言えば「異文化」)に配慮する翻訳の方略です。翻訳とは単なる言葉の置き換えではなく,「どのような目的で翻訳するのか」,「だれがその翻訳を利用するのか」,「翻訳不可能なものについてどのように妥協するのか」といった様々な要素が絡む多層的なプロセスなのです。グローバリゼーションがすすむ昨今,さかんに「他者理解」ということの重要性が叫ばれていますが,言語を超えて他者を真に理解するためには,翻訳行為によって前景化する自己(自文化)と他者(他文化)との差異へ配慮することが必要なはずです。機械翻訳に翻訳を丸投げするということはそうした差異への配慮を放棄することにつながりかねないことを指摘しておかなければならないでしょう。この点については,鈴木章能先生のコメントへの「応答」でさらに掘り下げています。

本論の最後では,翻訳という行為が本質的に有する価値について掘り下げました。よく知られていることですが,二葉亭四迷,森鴎外,谷崎潤一郎,芥川龍之介など,明治以降に活躍した作家・思想家で西洋文学の翻訳も積極的に行った人は珍しくありません。現代でも,作家でありながら,翻訳家としても活躍している人物に村上春樹がいます。村上春樹は翻訳をとおして作家として研鑽を積んだということを述べているのですが,そんな彼の翻訳観を手掛かりに,翻訳という行為がもつ,お金には還元できない価値について考察しています。それは,言葉を自らの力で解釈し再構築する喜び,そしてそこから得られる成長といった要素です。

翻訳とは読むことであると同時に書くことでもあります。文章を読むこと。文章を書くこと。何気ないことのようでいて,とても難しいことです。それでも多くの人が本を読み,文章を書く。テクストとのそうした邂逅には,きっと人を惹きつけずにはおかない魅力があるのだと思います。翻訳というプロセスは,テクストがその魅力を最大限に発揮する機会の一つではないでしょうか。

以上のように,本章では機械翻訳と未来社会について「漠然とした推測と印象」を超えて,理系と文系の技術と理論を整理し,機械翻訳の限界と人間による可能性についての議論の土台を提案しました。

とかく日本では物事を理系/文系などにわけて考えがちで,専門外のことについては「専門ではないから自分にはわからない」とはじめから議論に参加することをあきらめてしまう人も多いと思います。機械翻訳は翻訳や通訳という文系的な領域と自然言語処理という理系的な領域にまたがっているので,そうした分断を乗り越えてより多くの人が議論にくわわることのできる格好のテーマだと思います。

わたしの専門は19世紀アメリカ文学であり,本章における自然言語処理や翻訳・トランスレーション・スタディーズに関する議論には,より掘り下げるべきこと,また修正すべきことが多々あると思います。とりわけ,機械翻訳と人間による翻訳の技術的差異について認識ができたとしても,通訳や翻訳などの雇用の今後については,「機械翻訳の開発速度」,「通訳・翻訳の現場におけるコストの問題」などをテーマに実務者や開発会社の方々を交えた議論が必要だと思います。また,外国語教育についての議論も欠かせません。機械翻訳の急速な進歩とその影響力を考えると,教育現場の変化だけでなく政策などに関わる理念についても教育者と開発者の議論も欠かせないでしょう。ぜひ読者の方々には本章を批判的に読んでいただき,より多くの方々に議論を深めていただければ望外の喜びです。

 

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