| 特集 | 『機械翻訳と未来社会 言語の壁はなくなるのか』リレーコラム(1)西島佑

リレーコラム(1)

西島 佑
(上智大学大学院総合グローバル学部特別研究員PD)


社会評論社公式ブログ- 目録準備室 -を閲覧している皆さま、こんにちは、西島佑と申します。わたしは、2019年7月に社会評論社から出版させていただいた『機械翻訳と未来社会―言語の壁はなくなるのか』の編著者の1人です。先月には、瀧田寧先生との「ミニ対談」も掲載させていただいております。(http://shahyo.sakura.ne.jp/wp/?p=6607

今回は、前回のミニ対談に引き続いて、『機械翻訳と未来社会』でわたしが担当した「序章 機械翻訳をめぐる議論の歴史」について紹介させていただき、また序章の背景について2つほどお話しようかと思います。

『機械翻訳と未来社会』序章について

最初に序章について紹介いたします。『機械翻訳と未来社会』の序章には、2つの目的があります。1つは、機械翻訳の技術的発展に関する重要文献を紹介することです。そして2つめは、主として歴史上の哲学者たちが提起してきた機械翻訳への批判的議論をとりあげることです。なぜこの2つを論じる必要があったのでしょうか。

本書『機械翻訳と未来社会』は、文系の若手研究者の考察をコンセプトにしています。そのため序章としては、機械翻訳の技術的発展の歴史とあわせて、「文系」とされる人々の先行する議論を論じることに意味があると考えたからです。なお、このような内容を日本語でかつ導入的に読めるものはまだないかと思います。

わたしが序章を通して述べたかったのは、人間と人工知能の違いや言語とはなにかを問うことの意義です。機械翻訳が社会に浸透するにつれて、いろいろな問題が予想されます。たとえば、人間の翻訳・通訳はどうなっていくのか、翻訳・通訳の営みをすべて機械翻訳に任せてしまってもよいのか、機械翻訳があれば言語教育は必要なくなるのか、などです。

このような「文系的」な問題を考えるためには、人間と人工知能の違いや言語とはなにかという、一見すると抽象的で無用な問いを考察することが重要です。たとえば、「高度な機械翻訳が登場しても、人間による翻訳と通訳はなくならない」と主張するためには、「そもそも言語には、これこれこういった側面があり、それは人間にしか理解できないことであるから」というように論じる必要があります。そしてこのような議論はすでに歴史上に存在します。

序章は、機械翻訳の技術的発展の歴史だけではなく、このような文系的な議論も扱うことで、人文・社会科学的に機械翻訳を考察するための一助となることをめざしました。

「序章」の背景① 機械翻訳の定義

ここからは序章に関する背景を少しだけ述べさせていただきます。まず「機械翻訳」の定義のお話をさせていただきます。序章の冒頭では、機械翻訳の定義を「コンピュータのような知的機構を利用した自動翻訳」としています(29-30頁)。こうした定義をした箇所は、本書『機械翻訳と未来社会』のなかでもここだけです。

この定義については留意点があります。序章の注1でもふれていますが、現在の段階では、なにを「機械翻訳」とよぶのか、その定義は文系や理系問わず、研究者のなかでも定まっていません。

定義について意見が一致しない理由は複雑です。たとえば、「自動翻訳」という場合、人間の手によらずに自律的に行われる翻訳を指します。しかし、そこで行われる「翻訳」とは、機械が行うような「独特」な翻訳を含めるべきでしょうか、それとも含めてはいけないと考えるべきなのでしょうか。

前者の場合、機械翻訳はすでに存在する(してきた)といえます。後者の場合なら、機械翻訳はまだ不完全なので、機械翻訳の定義を「コンピュータのような知的機構を利用して、人間の翻訳を援助する方法・理論・手段」のように変えるべきでしょう(注1)。さらに突き詰めると、もし「完全」な機械翻訳の実現が不可能なのであれば、機械翻訳の定義は、あくまでも「人間による翻訳の補助」とすべきです。

しかし、機械翻訳がどこまで技術的に発展するのか、はたして人間のような翻訳を行う機械翻訳は未来においても実現可能なのか不可能なのかは、研究者のあいだでも意見がわかれています。そのためなにを機械翻訳の定義とするのか、意見が折り合いません。

機械翻訳をどのように定義すべきなのか、この問題は、あまりにも大きすぎるので、本書でも主題とはなっていません。本書は共著でもあるので、ほかの執筆者がなにを「機械翻訳」と呼んでいるのか、わたしとは異なることもあるかと思われます。この点は、本書を読み進めていく上で注意していただけると幸いです。

「序章」の背景② 機械翻訳の歴史

最後に機械翻訳の歴史について、少しだけ補足させていただきます。

現在のところ、文系の議論まで含めた機械翻訳の歴史には「通史」というものがありません。ここで「通史」とは、一定以上の研究者たちがある程度は同意できるような歴史を意味します。このような状況なのには理由があります。

そもそも「文系」とされる立場から機械翻訳を研究する人は、まだそれほど多くいません。学会があるわけでもありませんし、大学の(文系)研究科や学部で人工知能を扱う科目も多いとはいいがたいです。今後はもう少し文系のほうでも人工知能を扱うことが増えてくるかと(期待も込めて)予想しますが、まだまだ「通史」のようなものを定められる段階ではありません。

序章は、このような「通史」がないようなところに嚆矢として、そしてこれから人文・社会科学系の立場から機械翻訳を学習・研究しようかと考えている方々への導入となることをめざして執筆されています。機械翻訳に人文・社会科学的にアプローチすることを考えている方は是非ご覧くださいませ。

文献
(注1) 新田義彦 2012 『機械翻訳の原理と活用法――古典的機械翻訳再評価の試み』明石書店、pp.24-5.

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